麻袋からダクト中心の経営へ

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麻袋からダクト中心の経営へ

麻袋中心から転換の兆し

米の麻袋での運搬

戦後21年〜30年までの山田商店の業態は輸入食料にかかわる麻袋業が中心となっていましたが、貿易自由化以後は化学肥料などの輸出用、国産アルコール原料の国内輸送用の麻袋などに営業の重点を置きました。

港湾でのバラ輸送

しかし、時代と共に包装資材の新技術開発が進み、紙製品はじめ、新素材による包装や運搬用具の進出、さらに港湾設備の改革も進み、輸入食料のバラ受け、バラ輸送の設備が整い始めると運搬用具としての麻袋の需要は減退していきました。また一方で麻袋修理・再生工場のミシン工等の人員確保が著しく困難になったという社会的変化が背景にありました。山田商店はこのような時期に経営の転換を図ることとなります。その一つとして昭和31年、冷房機販売業の日本エアが山田商店の経営傘下に入ったことがあります。
日本エアが傘下に入ってからは山田正司の経営方針により従来の冷房機ディーラーから空調工事業者へと転換しました。その後、日本エアはクリーン・ルームの分野においてパイオニアとなり、著しい成長を遂げました。経営方針の転換は成功だったと言えます。
そして空調業者として日本エアに蓄積された実績やノウハウはその後、山田商店がダクト業に進出する大きな推進力となるのです。

麻袋業からの脱皮、そして「山田株式会社」へ

クラフト紙袋などの梱包資材の進出

昭和30年代後半、40年以後、高度経済成長期に入り、山田商店の業務は多角化していきます。昭和30年代後半は山田商店の麻袋業は縮小へと向かいました。
後に山田正司は語っています。「昭和40年以後になると、麻袋業界が確実に転換期を迎えつつあるのを痛感させられた。援助物資・輸入食料輸送資材としての麻袋の戦後がようやく終わりにさしかかっていた・・・」本格的に経営の転換を図るときでした。
昭和41年、山田商店は米国ドワイヤー社、ビンディケーターの国内総販売元として、機器部を作りました。
また、山田正司はダクト業を始めるにあたり2年間の調査を続けました。その結果、ダクトのメーカーとして大手はこの分野に進出していないこと、関連会社日本エアで蓄積したノウハウを以って技術面で優位にたつことが可能、と経営の見通しを持ちました。ダクト進出にあたってのマーケティングは的をはずしていませんでした。
これより先、昭和44年、山田商店は「山田株式会社」と社名変更しました。同年、株式会社清水麻袋を合併します。「山田商店」から「山田株式会社」への社名変更は名実ともに明治創業以来の麻袋業からの脱皮・転換の意味を持ったものでした。

ダクト中心の経営へ

高島町ダクト工場

山田株式会社が本格的にダクト中心の経営に転換したのは昭和54年です。ダクトは山田正司の予測した方向に業績を伸ばしていきました。大都市圏で建設ブームが続くなか、ダクト市場は広がりました。
ダクト業者として、山田株式会社の営業は技術面はもちろんのこと、「堅実に、誠実に、正確に」の方針を守っていくことです。製品の納期の正確さでは定評があります。大手ゼネコンの工事日程に合わせ納期を厳守することは一方で工場で職人の時間のロスをなくす合理化をもたらします。これは顧客の信頼を得る結果に結びついていきました。
ダクト中心の経営への転換はいわば“第2の創業期”の意味を持つといえます。

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