山田屋創業までと横浜

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山田屋創業までと横浜

文明開化のさきがけ・横浜

横浜鉄道蒸気出車之図 交通博物館所蔵・市民グラフNo.68より

明治のはじめ、「文明開化」は新時代の合い言葉か、掛け声といったところでした。「文明開化」という言葉は開港地・横浜に最も似合っていました。1859年の横浜開港以後、港は出船、入り船で賑わい、ガス灯がともり、馬車が走り、異人館が建ちならび、鉄道は新橋へつながって、と開化日本の象徴的都市だったのです。また、横浜は「最初づくし」の都市であり、日本で最初のガス灯が点ったのも、最初の日刊新聞が創刊されたのも横浜でした。横浜は日本全国から野心と希望を持った人々を吸い寄せたのです。

創業者山田三吉、横浜へ

明治30年頃の合の子船 「日本の物流と交通」より

繁栄を謳歌していた横浜へ創業者・山田三吉がでてきたのは明治23年のことでした。静岡県引佐郡の農家に生まれた山田三吉は商人を志して、土地の物産である畳表の販路開拓に各地を往来したのですが、苦しい商売が続いていました。販路を拡張し、多少なりとも地方の開発に貢献できようかという意気込みもありました。しかし、資力も信用もない田舎の青年の意気込みだけではなかなか商売にならなかったのです。東海道、京浜地方、関西方面にまで取引を広げましたが失敗続きでした。そして、転機を求め、横浜の地を踏んだのです。
三吉は横浜へ出るまでのことを、後年の回顧録にて、「交通や運輸の機関が完備しておらず、得意先への荷物の運搬も得意先周りをするのにも苦心や手数は並大抵ではなかった」と述べています。また、当時をこのようにも述べています。
「経験のない悲しさ、私の苦心も努力も何等報いられるところなく、失敗に失敗を重ね、ありとあらゆる困難は絶えず身辺を襲って・・・私にとってはたしかに苦難の時代であった」。
山田三吉が横浜にのりだそうとしたのには、三吉が生まれ育った遠州地方が茶の産地として横浜と結びつきがあり、それだけに開港景気の情報が多かったことも理由の一つとしてあげられます。漠然と夢を抱いたのではありませんでしたが、新時代の波に乗ろうとしたのです。すでに三吉は39歳でした。

「山田屋」の誕生

憲法配布のパレード(ビゴー画『トバエ』)

「憧憬」の横浜にでた三吉夫婦はすぐに店をもったわけではありませんでした。はじめは大道商人、それから引き売り行商などもしながら店を持つ日に備えました。
後に三吉はこう語っています。
「横浜に出てみれば田舎とは全然勝手が違いますので、先ず同郷の先輩で道具屋を営んでいた宗田治平殿に相談しまして・・道具屋を開店」。
明治23年、こうした道具屋「山田屋」の開店が、山田株式会社の歴史の始まりとなるのです。

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