麻袋中心に業務拡大

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麻袋中心に業務拡大

麻袋事業のはじまり

新港埠頭建設工事

道具屋として始まった山田屋は明治23年、資本金100円にて麻袋と叺(かます)業として創業することとなりました。
安政の開港時から明治初期までの横浜波止場は物産の積み出しに重要な施設でありましたが、明治20年前後の頃にもなると老朽化が進み、早急な改善を迫られていました。そこで明治22年、防波堤や桟橋、鉄道建設が決まりました。山田屋の開業はこの第一期工事の頃にあたります。
ある時、三吉は築港工事を見に行き、防波堤の築造にワラ工品の俵と叺(かます)を使っているのに気づきました。調べてみたところ、俵と叺では土をつめてもその半分は水中に流れ、効率が悪かったのです。かねてから三吉は輸入南京米の袋(麻袋)が年々おびただしい量であるのを知って、その空き袋のいい利用法はないものかと考えていたことから、築堤工事に空き麻袋を使うアイディアを持ち込んだのでした。
このアイディアが築港工事に見事採用され、山田屋は開業早々から仕事に追われました。道具商の販売はこの時期にやめ、麻袋と畳表の販売が当時の営業の中心になりました。

海外取引の成功

倉庫内の麻袋

麻袋と畳表を販売する一方で、中国から落花生を輸入し、舞阪産の唐辛子の海外取引も始めていました。また、変わったところでは横浜の中国人を経由して人力車を中国へ売るなどもしていました。築港工事に麻袋を売り込む発想も、海外と取引を始めたことも三吉の先見性と勘の良さといえます。
横浜港修築工事の竣工で、麻袋の納入も終わった頃には国内における麻袋のマーケットも拡大してきました。日清、日露両戦を経てわが国も米の輸入、またその他雑穀の輸入も増えてくると、当然ながら空き麻袋が供給過剰となりました。国内市場を争っていてもさきゆきが知れていると判断した三吉は、多少冒険と思いながらも、空き麻袋の原産地香港へ逆輸出を試みました。この試みは見事的中し、相当の利益を挙げました。その後引き続き十数年間、香港への輸出に力を注ぎました。その結果、明治32年には東京浅草三軒町に麻袋仕入れ店として支出を開設するまでに至りました。

麻袋の逆輸出と市皮の輸入の成功

「七十七翁 山田三吉誌」表紙

しかしながら、明治27、8年「日清戦争」後の景気は、芳しくないものでした。そんな中、一つの転機が訪れました。新商品の開発、その販路拡張として市皮(いちび)の輸入から始まったのでした。市皮とは畳表を織るタテ糸の原料となるものですが、その市皮が乏しくなり、値段が急騰したのです。従来から、三吉は中国・南京から輸入している落花生の麻袋などが市皮の糸で補修されてあることを知っていました。そこで中国産市皮を輸入することにした事が功をそうしました。中国には市皮を豊富に生産する産地もあり、価格も低価格で輸入することができたのです。
古麻袋の逆輸出と市皮の輸入は国内で三吉が初めてその途を拓きました。後の回顧録でも三吉は、「これによって少しでも国家社会のために貢献できたことは自らを顧み、満足している次第であります」と述べています。
このようにして山田屋の経営は日清戦争後の明治30年頃で基礎固めができたのです。

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